昭和46年01月29日 朝の御理解
御理解 天地書附
「生神金光大神天地金乃神一心に願え おかげは和賀心にあり 今月今日で頼めい。」
教祖の神様がお参りをして来る信者氏子に対して、これを書き付けられた。そしてそれを。これを見やすい所に貼っておけと言うて渡された。二代金光様にもこれを、書き貯めておけと言うて、これを沢山書き貯めさせて、沢山な信者にお渡しになった。必ずその見やすい所に貼っておけと言うて、書いておられるのがこの天地書附であった。現在ではこの天地書附は、いわば私共が拝まして頂く対象とするべきだと。
例えば御神事と飾りとか、御神米とか使ったですけれどね。金光教の信心は、これを拝む以外にはないのだというので、もう壁にただこれを掛けただけで、それを拝んでおるというところも、随分あるくらいであります。まあいうならお道の信心のお題目と言うてもいいでしょう。仏教で言うなら南無阿弥陀仏であったり、または南無妙法蓮華経であったり、まぁそう言う様なふうだと思います。
それを天地書附と言うて頂いておるわけであります。生神金光大神 天地金乃神様 一心に願え おかげは和賀心にあり 今月今日で頼めい。生神金光大神様天地金乃神様どうぞ、どうぞと言うのが一心なんですね。私の心の上に、どうぞ和らぎ賀ぶ心を頂かせて下さいと、今月今日もういうなら、今月今日と言うことは、刻々と言うてもいいことでしょうね。いつも自分の心の中に願い続けさせて頂く事。
まあどうぞ私の心に和らぎ賀ぶ心を頂かせて下さいと願うことなんです。今日はそういう勿論そうですけれども、そんなら私どもがほんとにこの、おかげは和賀心にありと仰せられるが、その和賀心と言った様なものが、そう簡単に頂けれるものじゃない。なりたいなりたいという願いは持っておる。自分の心が和らいでおるという事。しかもそれが賀びに満ちていると言う事。まあそれはもう最高の境地でありましょうからね。
なるほどそういう境地には、ほんとに頼まんでもおかげは頂けれると思います。だから、まあ願うことはここだという事になっておりますけれども。そんなら果して私共がね、そういう和らぎ賀ぶ心が、中々頂けません。まあそこで和らぎ賀ぶ心を頂かせていただく事の為に、いよいよ信心の稽古をさせて頂くのです。不思議にこれは自分で頂こう、自分で頂こうとしても、そうなろうとしてもなれない。
やはり神様が下さるものです。和の心も賀の心も。これは勿論金光大神が言われるところの和賀心ですね。普通で言う和ではない。金光大神の言われる、この和の心。いわゆる、おかげが伴う心なんです。ですから私どもが、天地の親神様のお心に添うというか、お喜びを頂けるようなことに本気で精進いたしますとね、どこから湧いてくるか分からんようにして頂けれるのが、この和賀心だと、こう思いますね。
これはまあ私の体験ですけれども、二十何年、引き揚げて帰りました当時、親教会に毎朝、ずっと朝参りをさしてもらいました。もう全然お風呂を頂きませずに、朝晩水をお水を頂きますからお風呂を頂きません。まあお風呂など一生入ろうと思っておりませんでした。そういう時代ですからもう私は大体、ヒビやらあかぎれは切れんのですけれども。もうそれこそヒビあかぎれが、いっぱい切れましたね。やっぱりパサパサするごつなるですね、皮膚が水だけそして足袋は履きません。
それで椛目からたまたま勿体島の堤防辺りまで行く間は、もう痛うして足が踏み切られん位ありました歩くのに。血がこう吹き出しますですね。それを辛抱して歩いて行きよりますと、もう教会に着く頃はまあ平気で痛くもない。けれども血がいっぱい床にべとべとする位に血が出とりました。五時の御祈念ですからまあ四時半頃、あちらへ着きますそしたらお広前のお掃除です。掃わきだしてこうもうお雑巾がけを致します。
盲ほんとうにねもうそれが楽しみじゃった事をね、お掃除にかたってお雑巾がけをさせて頂く頃になるとね、どこから湧いてくるか分からんごたる力が湧いてくるんですよ。もうそれこそですねもう一生懸命こうやってお雑巾がけをしておる、この冷たい手にも熱いごたる涙がボロボロ落ちよりました。何がそんなに朝早よから起きてから、雑巾がけでもする事がそんなに理屈じゃないです。
その様にして神様に打ち向かうておると言う事がね、私は神様の感動になっとった。その神様の感動所謂神の喜びが私の心へ通うてきておったんだと、今にして思いますその様にした打ち向かい方。そこん所がね私は一心に願う事だと思う。もう身体全体で願っておる訳です。先生がそうやったらいっちょ自分も、明日からいっちょお雑巾がけをさしてもらおうと、その言うてそれがもう真似が出来るかどうか分かりませんけれども、私の場合はそれがそのまま、神様へ向こうておる印であったと言う事なんです。
私はこの様にしてお縋がりしておりますという印が、そういう形に表れておったんです。それこそ熱いほどの感じと言うですかね、喜びを頂いておった。ああいう心が私は和賀心ではなかっただろうかと自分で思います。ここへこうして座らせて頂いておる。お参り閑散としておる。私は不思議に閑散としておる時ほど喜びが一杯になるんです。ふっと神様を思う、自分の心を見つめる。
まあ何と有り難いことになって来ただろうかということでしょうけれども。まあそれは訳は分からんけれども、嗚咽が出る ほどに感動する。そういう時には、確かに私の心が和賀心で一杯の時であろうと、こう自分で思うのですけどね。ところが、なかなかその和賀心というものは、いつも自分の心の中に頂き留めておるというは、実に難しい事。そこでね、一心に願うという事。
天地金乃神一心に願え、生神金光大神天地金乃神一心に願えと。どうぞ一つその前の所謂立教神伝ですね、最後の所を一つ読んでみましょう。『世間になんぼうも難儀な氏子あり、取次ぎ助けてやってくれ。神も助かり氏子も立ち行き。氏子あっての神神あっての氏子、末々繁盛いたし、親にかかり子にかかり、あいよかけよで立ち行き』と。この天地の親神様が、教祖金光大神に頼んでおられることなんですね。
世の中に難儀な氏子を取り次ぎ助けてやってくれと。その取り次ぎ助けてやってくれというところに、どういうことになるかというとね、家業をやめてくれという、『両方のさしつかえに相成り。なんと家業をやめてくれんか。其方四十二歳の年には、病気で医師も手を放し、心配いたし、神仏願い、おかげで全快いたし。その時死んだと思うて欲を放して、天地金乃神を助けてくれ。
家内も後家になったと思うてくれ』というような厳しいところがあります。もうあの時にひとつ死んだと思うて欲をはなして、神を助けてくれんかと言うておられます。神を助けてくれと。ほんなら、神が助かるということは、どういう事かというと、氏子が助かるという事と同時に、あいよかけよで立ち行っていけるということなんです。神様が助かられるという事は、ただ、氏子が助かるというだけじゃない。
氏子の助かると言う事が、そのまま神の助かりに繋がると言う事。所謂あいよかけよである。氏子が繁盛いたし末々親にかかり子にかかりあいよかけよで立ち行く世界。そういう世界が顕現される。その事が神の願いである。その為には金光大神に死んだと思うて欲を放してと言うておられます。それを「はい、承知仕りました」と、いわば受けて立たれた訳である。家内は後家になったと思うてとまで言うておられる。
まだ42歳の教祖がお若い時の事であります。死んだと思うて欲を放して、天地の親神様の神願いをひた受けにお受けなられた。私はその一事をもってでもですね、私共が助からなければ、いわば天地の親神様に対しても、金光大神に対しても相済まんと言う事になる。何の為にその様な神様は神頼みをなさったか、何の為にその様な、死んだと思うて欲を放してという程しの、ご誠心を以ってお取次ぎをして下さる事になったのか。
ですから私共が、取次ぎ願い頼ませて頂いて、おかげを頂かなければならんという事になる。でなからなければ相済まん事になる。私は今日ここん所を、ひとつあの強調しておりますからね、そこんとこをひとつ聞いて頂きたい。今まで天地書附を頂きます時には、大体とにかく願う事は、あれでもなからにゃこれでもない。ただ自分の心の中に、どうぞ、和らぎ賀ぶ心を頂かせて下さいと、一心に願えというふうに頂いておりましたでしょう。今日はそのこの一心に願うと言う事をね、頼むという事。
いうならそれはどういう事かというと、繁盛するように頼むという事。不健康な者なら健康になる様に、お金を不自由しとる者なら、お金のお繰り合わせを。人間の難儀という難儀人事。それこそ百般。もう何なりとも実意をもって一生懸命に願うのだ。頼むのだ一心に願え。その一心になって願うと言う事は、一遍お取次ぎを頂いてお願いをしたから、もう朝の御祈念の時に拝む時に、一生懸命願うたからだけじゃいかん。
もういつもが願いの姿勢になっとらなければならないと言う事。そしてこちらが和賀心さえなりゃ、神様はおかげ下さるからなんていう様なものではなくて。ほんならそういう和賀心と言った様なものが、いつも頂けるものじゃないのだから。そこに心は向けておる。和らぎ賀ぶ心の頂けれることを一生懸命願う。この姿勢は崩してはならないに致しましても、同時に願わなければならない。
私どもが繁盛するように願わなければならない。今だったら金光大神の、いわばそのような大したご修行が水の泡になるような感じがする。何の為にです、命子としてのお取次ぎをお受けになられたかということ。難儀な氏子あり、取次ぎ助けてやってくれと言うておられます。だから金光大神取次ぎを願って、私ども助からなければいかん。そこにね、神も助かり氏子も立ち行くという世界。
昨日、伊万里の竹内先生、お参りになって、お手紙を、ある教会の教会長先生から、竹内先生宛てに来とる手紙を持って見えて、一つ読んで下さいという事であった。読ませて頂いたら、もう布教に出られて四十年。四十年にもなるような教会の教会長先生である。奥さんは、ある教会の信者。先生の方も、また別な教会ですけれども、教会で修行された、二人とも教師の資格をもって布教に出られた。その手紙に、まあ竹内先生が、今度市長になられてから、ご立派になられたと。
だからもう側に寄りつけないような感じがするけれども、まあ今まで通りおつき合いをして下さいといったような願いの手紙の最後のところにです。四十年このようにして信心させて頂いておって、別に何も良かろうようなふうはないのに、何が良いなら金光様の信心をしよんなさるですかと、人に問われたら、私はこういうふうに申しますと言うて、書いとられます。ご信者が非常にその少ないらしいですね。
もう四十年の記念祭というのに、まあいうならば細々と教会が立っておるだけ。もう細々と生活をしておるだけと、言うくらいな教会らしい。それで是非一遍合楽に御神縁を頂きなさらんか。お参りをしなさらんかと言うて、まあお勧めになるけれども。その親教会に対して相済まんとか、道を間違えちゃならんとかと言うて、まあ一生懸命頑張っておられるような感じなんですね。
そしてなるほどご覧の通りに、こうやって貧乏生活を続けておりますけれどもです、これ以上のものは望みませんと書いてある。それにもしあなたは金光様の信心を頂いて、しかも教師にまでなられて、教会まで持たれてこの様な状態でと言われたら私はね、こういう中でね決して楽をしよう等とは思わんようになったという事がね、まあおかげだと言う様な意味の事を書いてありました。
それをご覧になってから竹内先生がです、まあそげな痩せ我慢とまあ見とられる訳ですね。そんな痩せ我慢は言わずに、この様に素晴らしいおかげの頂けれる道におりながらね。どうしてそういう狭い事を言われるであろうかと言うのである。しかし大体は今の金光教ではそういうのが流行りですよ。おかげを頂く事はむしろ飼養などとはごたる感じです。とても貧乏な中にあって、もう本当に何時かもお話致しましたですね。
ある偉い先生が終戦直後に、ある婦人と会われた。もうそれこそ何もかにも尾羽打ちはらした格好で、みずぼらしい難渋の状態を見られてから、金光様の信心を勧められた。それから、その婦人は一生懸命、金光様の信心をするようになった。それから五年後又その婦人に会った。成程姿形はです矢張り、みすぼらしい格好をしておられたけれども、生き生きとしてです、信心を頂かして頂いておるおかげで、いわばまあ喜びの生活をさして頂いとりますと言うて喜ばれたと。
まあそういうおかげがとても良いおかげだというふうに言われる先生方が沢山あるですね。信者も多いです。成程そりゃそのそらその通りじゃろばってん、そういうですね、ほんなら五年間なら五年間の信心の後にです、難儀を難儀とも思わずそこに喜びが感じられたらね、もうその喜びには絶対おかげが嫌と言うもついてくる筈なんです。けれどもそりゃほんな喜びじゃなくて痩せ我慢だから着いちゃこん。
おかげは和賀心にあると仰る。だからおかげがついて来ないという事はおかしい。もう私はこれで一生楽をしようなどとは思わんと、神様はもううずうずした思いでね、おかげをやりたいと思われても、氏子が願わにゃおかげにならん。私は今日そのその事をね、昨日あのここでお取次ぎ、ある教会長先生のお取次ぎをさせてもらって。そしたらやっぱりこんな黒衣を着てね、まあその先生の姿であろうと思うた。
御神前に向こうておられるけれども、御神前の方向かずに横向いちゃるもんこう。してから袴ん下に手ばここにこう入れちゃる。こいう格好で神様がここにござるならこっち向いちゃる。是じゃ神様のおかげを下さる用はなかろうと思う。神様の方を向かにゃそりゃいつもおかげを頂かして頂く姿勢をそこに置かにゃ。おかげを頂かにゃならんと言う事。袴の下に手はこう入れちゃるからもう矢張りお頂戴をせにゃ頂きたいなら。
成程是じゃおかげが頂けんじゃろうと私は思う。なぜおかげを頂かなければならないかと言う事を、なら私は立教神伝から今日は申しましたですね、死んだと思うて欲を放し、世の中になんぼうも難儀な氏子あり、取次ぎ助けてやってくれと、天地の親神様は、教祖金光大神に、神頼みになられたんだもの。そういう大変なご修行をして下さってある金光大神に、私共信心は出来んでも、願わなければいけん。
但しその焦点がです、いわゆる和賀心にならせて頂くという事を一生の願いとさせてもらうという。おかげば頂いたら最後、もう後は願わん後は頼まん。いや和賀心になることには精進しないと言った様な心ではおかげは受けられん。和賀心にはなっていないけれども。けれども願わなければ。痛いことは痛い、痒いことは痒いのである。だから掻いて下さい。擦って下さいと言うて願わないかん。いや願わなければ相済まん。それも一遍頼んだからじゃない。それこそ繰り返し繰り返して頼まなきゃいけん。
黒衣を着けて、羽織袴を着けて神様の御用をさして頂いておってもです。もうこれ以上の楽はしようとは思わんてんなんてんち言うて横向いとる。そしてどうぞ下さいて言うて願いもせん。袴の下に手はこう入れとる。これではいかん。私どもは一心に願わして貰う。天地書附にも、生神金光大神 天地金乃神 一心に願えとある。だから一心に願い頼まなければいけない。頼まなければ金光大神に相済まん。
もとをとって道を開くものはあられぬ行をするけれども、後々の者は見易うおかげを受けさすると教祖は。いうならば私共に誓うておられる。もとをとって道を開く者は、あられぬ行もするけれども、後々の者はそのような行をせんでも見易うおかげを受けられるという道なのである。というてその見易いと言う所をです。ただ寝ながら頼むといったようなものではなくてです、ほんとにおかげは和賀心にありと仰せられるが、この和賀心を頂かせていただくという事だ。
いつも心が和らいでおる。いつも心の中が喜びで一杯である。そういうまあ最高のおかげの世界というのを、自分の心の中に頂かせてもらうという事が、私どもの理想である。だから、この理想に向かって一歩ずつでも矢張り進んでいくという、前進していくという姿勢を持って願えというのである。もう願うたが最後おかげを頂いたが最後、もうそげな事は願わんって言った様な心の状態ではおかげにならん訳です。
奥さんが難産で苦労してる訳。それで親父さんが一生懸命日頃は拝まん、神様に顔を赤らげちから一生懸命にその拝んだ。どうぞ一つ安産のおかげを頂かせて下さいち言うて、一生懸命願いよる訳です。そしてそのお父さんが願いよる事がですね、安産のおかげを頂いたなら、千の灯篭もお供えするごと言うてお願いしよる。そして嫁ごさんが、苦しまみれ、そのお父さんに言うた。
「お父さん、お父さん、ああたそげな事言うて願いよりなさりよるが、あんた生まれちから、そげん千の灯篭ば、どうしてあぁたお供えしなさるですか」ち言うたらね、「今、神様ば騙くらかしよっとこじゃけん、早う産め」ち言うたち(笑)。けれどもほんとにね、あのだからそれではいけないという事なんです。どげん一生懸命一心不乱に願うたっちゃです。もうその神様ば騙くらかしよるとこじゃから、騙くらかしたんじゃおかげにならん。ほんとにおかげは和賀心にあるんだという事をですね。
その和賀心に向かって、もう一生涯これに取り組むことであろうと。またそれが一分ずつでも一厘ずつでも、それに近づかして頂くという姿勢。そういうおかげを頂きながらね、一心に願えと。それはどういう事になるかと言うと、氏子繁盛いたすと仰る。全て繁盛ということは、全てがおかげという意味でしょう。病気の者は全快する事であろう。貧乏しておる人は金持ちになることであろう。
人間関係に苦しんでおる人は円満のおかげを頂くことであろう。もう円満のおかげさえ頂けばなぁにも要らん。病気さえ治りゃなぁにも要らん。というて信心がそこに、ぷつっと切れたんでは、金光様のご信心はご信心にならん。氏子繁盛いたし末々親にかかり子にかかり、あいよかけよで立ち行く世界の顕現を天地の親神様が願っておられるわけなんです。その天地の親神様のそういう願いに私共がかけさせて貰う。
その願いに固定さしてもらう。そういうおかげを頂かして貰うていく事を信心の根本にしてから一心に願うということにならなければいけんのであります。生神金光大神 天地金乃神 一心に願え。今日その一心に願えと言う所をどうぞ和賀心にならせて下さいと言うて一心に願えではなくてね、一心に私どもの感じておる難儀、また頂きたいと思う事を一心に願え。ただここんところをです、一心に願うことを私の心に、和らぎ賀ぶ心を頂かせて下さいと、これを願い続けて。
所謂袴の下に手を入れておったんでは、いつになったらそういうおかげの頂けれる和賀心が頂けれるとも分からない程しの大変な心なのですから。神様の方をちゃんと姿勢を正して、袴の下から手を出してそれこそいつもお頂戴をしておる姿がね、どうぞどうぞという時にはお頂戴しなきゃいけん。どうぞどうぞというてこげんじゃいかん。どうぞどうぞというてお頂戴をする。お頂戴と言う事は是は素晴らしい事だと思うですね。
子供でもそうでしょうが、親が持っておる物、さぁお頂戴しなさい。お頂戴しなきゃやらんでしょうが。もう頂戴したら、こっちは大体やろうごとしてこたえんとじゃん。親の方は。お頂戴せんなら渡さんでしょう。まあ天地の親神様と私どもはね、それよりかもっともっと、いうならば私共は幼稚なものであろうとこう思います。神様の目からご覧になると。そういう幼稚な私がね、お頂戴をすると言う事。
それが何の恥ずかしい事があろうか。何のいけない事があろうか。むしろお頂戴せよと神様が言うてござる。だからそのお頂戴の姿をですね、私共は言わば信心の姿だというても良いくらい。ここんところを一つ今日は、私は一心に願えということを、そのようなふうに、今日は聞いて頂いた。それはなぜかと言うと、立教神伝の最後のところを読ませて頂きましたようにね。
あいよかけよの、いわゆる神も助かり氏子も立ち行くおかげを顕現していくことの為に、表していくことの為に。その為に、教祖金光大神があのようなご修行をして下さってあった。命を懸けて、死んだと思うて欲を放してのお取次ぎをして下さった。その金光大神に対し奉っても、私どもがね、願わなければ相済まん。いや願っただけじゃない、願っておかげを受けなければ相済まんということになる。
私どもは、願いが足りんのじゃなかろうか。いつもいつも願いの姿勢を持っとかなければいけない。御神前に額ずいておる時だけが願いではない。いつもが願わしてもらうその心の状態を頂かしてもらう。『何事も 神の理解に 承り 承服いたせば 安心なり。』昨日、私申しました、教祖様のお言葉ですね。何事も、神の理解承り、承服いたせば安心なり。これは、私どもが安心というのではない。神様が安心して下さるということじゃなかろうかと思うですね。
はぁ親先生、今日頂いた御理解もその通りでございますと、私どもが願いが足りませんでした。今日から一心に願いますと、承服すれば神様の方が安心して下さる。ですから、ここのところを一つ、本気でひとつ願わして頂く心にならせて頂いて、神様に安心して頂けれるおかげを頂かしてもらう。その先に私どもの安心が約束されると思いますよね。 どうぞ。